SF批評/SF評論の基礎(その8)―ラカン問題
〈評論〉
SF批評/SF評論の基礎(その8)―ラカン問題
(1)SFは超遠近法である
筒井さんが「SFは超虚構である」と言ったので、筆者は、「SFは超遠近法である」と言うことにしよう。
では〈遠近法〉とはなにか。perspectiveの語源はラテン語だそうだ。perspicereは「明らかに見る」こと……中世ヨーロッパでは〈光学〉と同意義だったらしい。
遠近法は透視図法と同じで、奥行きのある現実界を二次元に写し取るための技法である。ギリシアやローマ人によって発見されイタリア・ルネッサンス期に再興された。さらに一七、一八世紀に数学や幾何学が進歩して完成した。
遠近法は、一般に思われているように、単に絵画や製図の技法にすぎぬだろうか。それはちがう。遠近法を生み出した(考案した)のは、あくまで意思の働きであり、その意思とは人間が世界全体を掌握したいと願う本能の力である。
ともあれ、遠近法一つをとっても、時代ごとに人間の根本観念がわかる。中世絵画は空中に浮かぶ天使が地上を見下ろす天使遠近法であったし、ルネッサンス期には地上の人間が横に移動しながらの見る地上遠近法にかわった。バロックでは焦点が斜めの位置だったり、キャンバスの外に設定されたりする。
ところが、二〇世紀のはじめ、さらに様相が一変するのだ。たとえば、ピカソに代表される立体派の遠近法である。キュビズムの画面は様々な視点から見た対象物の面を再構成して創られる。形而上絵画のキリコでは消失点が複数になる。または東洋的な平行遠近法も組み合わされる。エッシャーではさらに発展し、あの奇妙な絵が視角の詐術として提示される。ダリはどうか、ダリの世界は極端な超遠近法である。
註、一九二〇年代後半、ラカンは自ら申し出てサルバドール・ダリと会見している。シュルレアリスムがラカンの理論構築に何らかの影響を及ぼしたことは否定できない。
もはや、唯一正統とされる神の視点が粉砕された。美術においてなされたこうした遠近法革命は時代思想の反映であるし、また社会に対して強いインパクトを与えた。われわれの脳は、こうして神学的な束縛から解放されていくのである。
純文学を読んで見たまえ、私小説でもよい、視点とその文学世界の果てまで距離はあまりない。肉眼で見える範囲の世界である。たとえば、病のために引きこもりとなった子規のように。少なくとの江戸時代の芭蕉のほうが視点は動いた。芭蕉は旅人である。だから動く。芭蕉の俳句は使われいる動詞が力強い。
〝五月雨をあめて早し最上川〟
〝集めて速し〟……とても強い動詞である。作者に体力も気迫もある証拠だ思う。
子規は、
〝鶏頭の十四五本もありぬべし〟
ただ観察しているだけで自らは動かない。子規は近代俳句の祖みたいな人だが、子規のように近代自身がすでに病んでいたのだ。その点でも芭蕉は元気溌剌である。意外や、江戸時代は健康だったのではないだろうか、とつい思いたくなる。
SF作家はどうか。われわれは、ハップル宇宙望遠鏡は盗撮する宇宙の彼方をも幻視する。SF作家は時間さえも超えて旅するのだ。
〈想像力の文学〉などと気楽に言わないでくれ。〈想像力の文学〉を生み出す脳の中を覗いて欲しい。SF作家の脳内は、まさにインナースペースなのである。
内宇宙が脳のなかに形成される。〈私〉はアストロノートになってこの距離無限大の空間をテレポテーションするのだ。
(2)SFと想像力の諸問題/ラカンから解く
筆者は何を訴えたいか。一九世紀のはじめに、ほとんど突然、主体(人間中心主義)の観念が生まれて神に取って代わり近代に突入したが、二〇世紀はじめに神の後継者となった人間すらも解体がはじまった。人間中心の思想では世界をまとめ切れなくなったからだろう。今日、われわれは宇宙のはじまりが一三七億年前であることを知っているし、大宇宙が猛スピードで拡散していることも知っている。われわれのいる宇宙は、無数のシャボン玉宇宙が押し合いへし合いしているよなうな超宇宙の一つにすぎない……。
そのような現代宇宙論に馴染んでいれば、自ずと人生観も変わってくる。というよりは、元々、意識のありようがまったく異なるのである。
これがSFマインドである。科学的にも十分に根拠のある想像の世界で、意識の拡大をはかる生き方がSF人の人生ではないだろうか。あるいは、想像界での旅、まさにセンス・オブ・ワンダーの旅である。
――さて、ようやく本稿のテーマに辿りついた。SFにとって重要な〈想像界〉について検討しよう。テキストはジャック・ラカンである。
狙いは何か。われわれ自身が想像力を発揮するには、自分の脳そのものの仕組みをしらねなければならない。
そもそもSFはリアリズム(写実主義)とは一線をかくす文学の形式であるが、しばしば、写実主義は現実にそくし客観的であるから上級であり、SFはありもしないことを書くから下級だと思われがちである。では、写実主義とはそもそも何かと問えば、元はラテン語のレアリス(realis)からきた言葉で、〈実在の〉〈現実の〉と訳されているが、これがすこぶるあやしい。哲学用語では〈実在論〉だが、これもあやしい。どうしてかというと、量子物理学の発展した現代の理解では、ほんとうの実在はわれわれが見ている世界とは別なわけであるから……。つまり、われわれは必ずしも世界の真実を認識しているとはかぎらず、不完全な感覚器官によって〈密室の中の意識〉へ〈外界情報〉を取り入れているだけである。そして、脳内で再構成された〈世界像〉を以て、われわれは〈実在〉と勝手に認識するだけである。
しかも、フロイトの忠実な再解釈者であるラカンの考えによると、脳の仕組みは極めで複雑で矛盾だらけだと言ってもいいらしい。
ラカンは精神分析家として、フロイトの〈超自我〉〈自我〉〈エス(イド/無意識)〉の領域(むろん、説明のための模式図的なものだが)を念頭に置きながら、〈想像界(imaginary)〉〈象徴界(symbolic)〉〈現実界(real)〉にわけた。むろん、トポロジー(位相)的に。以下、『コンサイス20世紀思想事典』(二九二ページ)他、末尾にあげた参考文献等を参照にまとめておこう。
【想像界】
まず〈想像界〉であるが、あなたは五歳前を思い出せるだろうか。筆者は五歳以前のことは何も覚えていない。つまり、よく言う「物心付く前のこと」である……。
ともあれ、ラカンは難しい。なにせ、話が、記憶にもない乳幼児の頃の出来事なのだから、当然と言えば当然である。いろんな解説書にもあたったが同じである。そもそも言葉化が無理なのかもしれない。だから、以下は、かなり、それこそ、筆者なりに想像した自己流解説であるとお断りする。(納得できないかたは、ご自分で、直接、ラカンを読んでください)
話を戻して、われわれは、なぜ、五歳以後をとぎれとぎれではあるが、記憶しているのかと考えてみよう。それは自分が存在するからである。その前は自分は死んでいるわけでもないのに、生きているのになにも覚えていない。なぜか。自分というものがまだいないからだとは考えられないだろうか。
幼子はまず自分を周囲から分離することからはじめる。これが、ラカンの有名な〈鏡像段階〉である。どういうものか。ラカンによると生後六カ月~一八カ月のころ乳幼児は、鏡の前でしきりになにか関心があるかのような動作をする。これは鏡に映った自己像によって、自分を統一しようとしているためだ。この時期の乳幼児は神経系統が未発達なため身体の統一感を欠き、ばらばら感覚をいだいているのだ。母親やきょうだい、出会った子供が鏡の代わりをすることもある。類人猿ではきょうだいや水面(鏡の代わり)だそうだ。
つまり、まだ自分自身を自覚しない乳幼児は、自分以外の他者の像を自己にとりこむ。多分、水面に映った自分の姿にうっとりしたナルシスの神話がそうだと思うが、自己愛(ナルシズム)の契機にもなる。しかも頻繁に他と自は入れ替わり、ときに愛し、ときに攻撃的となりつつ、自他の混同が行われる。
と言うには、鏡の中の自分(あるいは、父母、きょうだい)は、あくまで虚像であって、自分自身ではないし、身体のバラバラ感を統一してくれる快感の源は、自分自身ではなく鏡の中の自分(他者)である。これは矛盾である。
註、セトの手でオシリスが殺害され、バラバラにされたというエジプトの神話と関連があるのかもしれない。なお、フロイドであるが、身辺に大量のエジプトの神像をコレクションしていたと伝えられている。
註、白雪姫の「鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番きれいなのはだーれ」のように鏡はしばしばおとぎ話に登場する。
【象徴界】
しかし、〈想像界〉にいるかぎり、自分であって自分ではない矛盾というか、宙ぶらりんの状態にいることになる。そこへ〈象徴界〉が侵入してくる。つまり〈自他混沌〉の状態から〈自他分離〉を期すため、言語の力を借りて〈自他の差異化〉を謀るのだ。言語が自立性を持つのが〈象徴界〉である。
註、精神病の中には幻聴を伴うものがある。言語は生きた人間から発せられるのではなく、患者の意思に関係なくその頭の中に侵入してくる。この言葉のインフレーションが患者を支配し、脅し、あるいは命令する。たとえば、夕方の橋の上で耳をふさいでいる人物の絵があるが、ムンクの有名な作品である。あの絵からもおおよそが想像できるであろう。
註、混同があると困るので付け加えるが、一般的に言う象徴はラカンの概念とはちょっとちがうようだ。一般的な象徴は記号と同一である。富士山が日本の象徴とされるのは、日本という眼にはみえないものをわかりやすくする〈記号〉と考えてもいいだろう。国旗も同じである。が、あえて区別すれば、象徴と言うときは意味内容をさすし、記号は具体的事物を代理するものである。
【現実界】
実はリアリズム支持者が信じきっているような〈現実界〉に根ざす〈主体〉などは存在しない。いるのは〈象徴化された自己〉でしかない。
ラカンによると、非情にも〈現実界〉は、ときには幻覚となって現れる場合はあるが、〈カオス〉でしかない。具体例を挙げれば実存哲学者J・P・サルトルの小説『嘔吐』が、多分、そうだ。主人公のアントワーヌ・ロカンタンは、突然、マロニエの根に名状しがたいカオスを見る。
〈現実界〉は〈象徴界〉との否定的な関係によってしか定義できない、到達不可能の領域である。
普段、われわれが、〈私〉とか〈心の中の現実〉〈外の現実〉と思っている、いや信じているのは、それらがすでに言葉(langage)によって、そのように分節されているからである。つまり、『マトリックス』の中の胎児のように、だ。彼らが現実と信じて見ている夢は、ほんとうの現実(真実)ではない。
ほんとうは、われわれには、この世界(物質界)の真実を見ることはできない。五感という器官によってある見え方(認識の仕方)しかしていない。
そのようにしか見えて(認識して)いないのである。
しかし、モノが名状しがたく不気味に突出することがある。これが、先述のとおり、ロカンタンが見た公園での経験である。
註、二日酔いのために、世界が象の皮膚のように感じられた経験はないだろうか。つまり、われわれが正常と信じて疑わない世界は、あくまでも世界の一つの貌にすぎない。
筆者自身も、目に見えている外界が唯一の現実であるとは信じていない。学生時代に被験者としてLSD服用という強烈な経験をしたからである。このアルカロイドは神経伝達の生理的連鎖を断ち切るらしく、世界はまるで芝居の書き割り(舞台背景)のように薄っぺらくなり、しかも皮膚が剥けるように景色が次々を剥けていくように感じられた。つまり、実体感が消えるのである。(むろん、正当な手続きを踏まない非合法な服用が、極めて危険であるのは言うまでもない)
[まとめ]
●ラカンを理解するにはフロイトを熟知する訓練が必要だが、とりあえずのお薦めは、『ラカン―象徴的なものと想像的なもの』(ジャン・ミシェル・パルミエ著/岸田秀訳/青土社)である。その帯にある紹介文がまとめの代わりになる。
「無意識と言語の関係を構造的に把握し、鏡像段階、象徴界/想像界/現実界、欲望、他者、などの概念を駆使して、精神分析をはじめひろく人文科学に新しい視界をひらいた、ラカンの思想への平明なアプローチ。」
●一方、SFとは何か――を、今後も考えるとき、SF小説のほうがリアリズム(写実主義)小説よりも、〈脳生育史〉的にも、〈脳本来の機能〉に対してより忠実だ――と筆者は考えるし、またSF文学をラカンのたすけをかりて精神分析することも可能だと思う。なぜなら「〝宇宙飛行士は現代の天使である〟と述べたラカンのSF観……」という気になる言葉が、『ラカンもしくは小説の視線』(赤間啓之著/弘文堂)の〝訳者あとがき〟にあるから……。
[その他、参考にした著作]
『精神分析の知』(福島章編/新書館)「ラカン」の項
『現代思想 フォーカス88』(木田元偏/新書館)「鏡像段階」「象徴界/想像界/現実界」の項
『精神分析用語辞典』(ラプランシュ+ポンタリス著/村上仁監訳/みすず書房)「想像的なもの」「象徴的なもの」の項
『フランス哲学・思想事典』(編集委員/小林道夫+小林康夫+坂部恵+松永澄夫/弘文堂)「ラカン」の項
『ポストモダン事典』(スチュアート・シム編/杉野健太郎+下楠昌哉監訳/松柏社)「ラカン」の項
『ラカンの仕事』(ビチェ・ベンヴェヌート+ロジャー・ケネディ著/小出浩之+若園明彦訳/青土社)
『家族複合』(J・ラカン著/宮本忠雄+関忠盛訳/哲学書房)
『パラノイア性精神病』(ジャック・ラカン著/宮本忠雄+関忠盛訳/朝日出版)
なお、『エクリ』は目下、わが書架より失踪中。
(荒巻義雄)
(2007/7/14)