2008/7/15 火曜日

SF批評/SF評論の基礎(その8)―ラカン問題

Filed under: 評論 — The Aramaki @ 20:28:08

〈評論〉
 SF批評/SF評論の基礎(その8)―ラカン問題

 (1)SFは超遠近法である
 筒井さんが「SFは超虚構である」と言ったので、筆者は、「SFは超遠近法である」と言うことにしよう。
 では〈遠近法〉とはなにか。perspectiveの語源はラテン語だそうだ。perspicereは「明らかに見る」こと……中世ヨーロッパでは〈光学〉と同意義だったらしい。
 遠近法は透視図法と同じで、奥行きのある現実界を二次元に写し取るための技法である。ギリシアやローマ人によって発見されイタリア・ルネッサンス期に再興された。さらに一七、一八世紀に数学や幾何学が進歩して完成した。
 遠近法は、一般に思われているように、単に絵画や製図の技法にすぎぬだろうか。それはちがう。遠近法を生み出した(考案した)のは、あくまで意思の働きであり、その意思とは人間が世界全体を掌握したいと願う本能の力である。
 ともあれ、遠近法一つをとっても、時代ごとに人間の根本観念がわかる。中世絵画は空中に浮かぶ天使が地上を見下ろす天使遠近法であったし、ルネッサンス期には地上の人間が横に移動しながらの見る地上遠近法にかわった。バロックでは焦点が斜めの位置だったり、キャンバスの外に設定されたりする。
 ところが、二〇世紀のはじめ、さらに様相が一変するのだ。たとえば、ピカソに代表される立体派の遠近法である。キュビズムの画面は様々な視点から見た対象物の面を再構成して創られる。形而上絵画のキリコでは消失点が複数になる。または東洋的な平行遠近法も組み合わされる。エッシャーではさらに発展し、あの奇妙な絵が視角の詐術として提示される。ダリはどうか、ダリの世界は極端な超遠近法である。
 註、一九二〇年代後半、ラカンは自ら申し出てサルバドール・ダリと会見している。シュルレアリスムがラカンの理論構築に何らかの影響を及ぼしたことは否定できない。

 もはや、唯一正統とされる神の視点が粉砕された。美術においてなされたこうした遠近法革命は時代思想の反映であるし、また社会に対して強いインパクトを与えた。われわれの脳は、こうして神学的な束縛から解放されていくのである。
 純文学を読んで見たまえ、私小説でもよい、視点とその文学世界の果てまで距離はあまりない。肉眼で見える範囲の世界である。たとえば、病のために引きこもりとなった子規のように。少なくとの江戸時代の芭蕉のほうが視点は動いた。芭蕉は旅人である。だから動く。芭蕉の俳句は使われいる動詞が力強い。
 〝五月雨をあめて早し最上川〟
 〝集めて速し〟……とても強い動詞である。作者に体力も気迫もある証拠だ思う。
 子規は、
 〝鶏頭の十四五本もありぬべし〟
 ただ観察しているだけで自らは動かない。子規は近代俳句の祖みたいな人だが、子規のように近代自身がすでに病んでいたのだ。その点でも芭蕉は元気溌剌である。意外や、江戸時代は健康だったのではないだろうか、とつい思いたくなる。
 SF作家はどうか。われわれは、ハップル宇宙望遠鏡は盗撮する宇宙の彼方をも幻視する。SF作家は時間さえも超えて旅するのだ。
 〈想像力の文学〉などと気楽に言わないでくれ。〈想像力の文学〉を生み出す脳の中を覗いて欲しい。SF作家の脳内は、まさにインナースペースなのである。
 内宇宙が脳のなかに形成される。〈私〉はアストロノートになってこの距離無限大の空間をテレポテーションするのだ。

 (2)SFと想像力の諸問題/ラカンから解く
 筆者は何を訴えたいか。一九世紀のはじめに、ほとんど突然、主体(人間中心主義)の観念が生まれて神に取って代わり近代に突入したが、二〇世紀はじめに神の後継者となった人間すらも解体がはじまった。人間中心の思想では世界をまとめ切れなくなったからだろう。今日、われわれは宇宙のはじまりが一三七億年前であることを知っているし、大宇宙が猛スピードで拡散していることも知っている。われわれのいる宇宙は、無数のシャボン玉宇宙が押し合いへし合いしているよなうな超宇宙の一つにすぎない……。
 そのような現代宇宙論に馴染んでいれば、自ずと人生観も変わってくる。というよりは、元々、意識のありようがまったく異なるのである。
 これがSFマインドである。科学的にも十分に根拠のある想像の世界で、意識の拡大をはかる生き方がSF人の人生ではないだろうか。あるいは、想像界での旅、まさにセンス・オブ・ワンダーの旅である。

 ――さて、ようやく本稿のテーマに辿りついた。SFにとって重要な〈想像界〉について検討しよう。テキストはジャック・ラカンである。
 狙いは何か。われわれ自身が想像力を発揮するには、自分の脳そのものの仕組みをしらねなければならない。
 そもそもSFはリアリズム(写実主義)とは一線をかくす文学の形式であるが、しばしば、写実主義は現実にそくし客観的であるから上級であり、SFはありもしないことを書くから下級だと思われがちである。では、写実主義とはそもそも何かと問えば、元はラテン語のレアリス(realis)からきた言葉で、〈実在の〉〈現実の〉と訳されているが、これがすこぶるあやしい。哲学用語では〈実在論〉だが、これもあやしい。どうしてかというと、量子物理学の発展した現代の理解では、ほんとうの実在はわれわれが見ている世界とは別なわけであるから……。つまり、われわれは必ずしも世界の真実を認識しているとはかぎらず、不完全な感覚器官によって〈密室の中の意識〉へ〈外界情報〉を取り入れているだけである。そして、脳内で再構成された〈世界像〉を以て、われわれは〈実在〉と勝手に認識するだけである。
 しかも、フロイトの忠実な再解釈者であるラカンの考えによると、脳の仕組みは極めで複雑で矛盾だらけだと言ってもいいらしい。
 ラカンは精神分析家として、フロイトの〈超自我〉〈自我〉〈エス(イド/無意識)〉の領域(むろん、説明のための模式図的なものだが)を念頭に置きながら、〈想像界(imaginary)〉〈象徴界(symbolic)〉〈現実界(real)〉にわけた。むろん、トポロジー(位相)的に。以下、『コンサイス20世紀思想事典』(二九二ページ)他、末尾にあげた参考文献等を参照にまとめておこう。
【想像界】
 まず〈想像界〉であるが、あなたは五歳前を思い出せるだろうか。筆者は五歳以前のことは何も覚えていない。つまり、よく言う「物心付く前のこと」である……。
 ともあれ、ラカンは難しい。なにせ、話が、記憶にもない乳幼児の頃の出来事なのだから、当然と言えば当然である。いろんな解説書にもあたったが同じである。そもそも言葉化が無理なのかもしれない。だから、以下は、かなり、それこそ、筆者なりに想像した自己流解説であるとお断りする。(納得できないかたは、ご自分で、直接、ラカンを読んでください)
 話を戻して、われわれは、なぜ、五歳以後をとぎれとぎれではあるが、記憶しているのかと考えてみよう。それは自分が存在するからである。その前は自分は死んでいるわけでもないのに、生きているのになにも覚えていない。なぜか。自分というものがまだいないからだとは考えられないだろうか。
 幼子はまず自分を周囲から分離することからはじめる。これが、ラカンの有名な〈鏡像段階〉である。どういうものか。ラカンによると生後六カ月~一八カ月のころ乳幼児は、鏡の前でしきりになにか関心があるかのような動作をする。これは鏡に映った自己像によって、自分を統一しようとしているためだ。この時期の乳幼児は神経系統が未発達なため身体の統一感を欠き、ばらばら感覚をいだいているのだ。母親やきょうだい、出会った子供が鏡の代わりをすることもある。類人猿ではきょうだいや水面(鏡の代わり)だそうだ。
 つまり、まだ自分自身を自覚しない乳幼児は、自分以外の他者の像を自己にとりこむ。多分、水面に映った自分の姿にうっとりしたナルシスの神話がそうだと思うが、自己愛(ナルシズム)の契機にもなる。しかも頻繁に他と自は入れ替わり、ときに愛し、ときに攻撃的となりつつ、自他の混同が行われる。
 と言うには、鏡の中の自分(あるいは、父母、きょうだい)は、あくまで虚像であって、自分自身ではないし、身体のバラバラ感を統一してくれる快感の源は、自分自身ではなく鏡の中の自分(他者)である。これは矛盾である。
 註、セトの手でオシリスが殺害され、バラバラにされたというエジプトの神話と関連があるのかもしれない。なお、フロイドであるが、身辺に大量のエジプトの神像をコレクションしていたと伝えられている。
 註、白雪姫の「鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番きれいなのはだーれ」のように鏡はしばしばおとぎ話に登場する。
【象徴界】
 しかし、〈想像界〉にいるかぎり、自分であって自分ではない矛盾というか、宙ぶらりんの状態にいることになる。そこへ〈象徴界〉が侵入してくる。つまり〈自他混沌〉の状態から〈自他分離〉を期すため、言語の力を借りて〈自他の差異化〉を謀るのだ。言語が自立性を持つのが〈象徴界〉である。
 註、精神病の中には幻聴を伴うものがある。言語は生きた人間から発せられるのではなく、患者の意思に関係なくその頭の中に侵入してくる。この言葉のインフレーションが患者を支配し、脅し、あるいは命令する。たとえば、夕方の橋の上で耳をふさいでいる人物の絵があるが、ムンクの有名な作品である。あの絵からもおおよそが想像できるであろう。
 註、混同があると困るので付け加えるが、一般的に言う象徴はラカンの概念とはちょっとちがうようだ。一般的な象徴は記号と同一である。富士山が日本の象徴とされるのは、日本という眼にはみえないものをわかりやすくする〈記号〉と考えてもいいだろう。国旗も同じである。が、あえて区別すれば、象徴と言うときは意味内容をさすし、記号は具体的事物を代理するものである。
【現実界】
 実はリアリズム支持者が信じきっているような〈現実界〉に根ざす〈主体〉などは存在しない。いるのは〈象徴化された自己〉でしかない。
 ラカンによると、非情にも〈現実界〉は、ときには幻覚となって現れる場合はあるが、〈カオス〉でしかない。具体例を挙げれば実存哲学者J・P・サルトルの小説『嘔吐』が、多分、そうだ。主人公のアントワーヌ・ロカンタンは、突然、マロニエの根に名状しがたいカオスを見る。
 〈現実界〉は〈象徴界〉との否定的な関係によってしか定義できない、到達不可能の領域である。
 普段、われわれが、〈私〉とか〈心の中の現実〉〈外の現実〉と思っている、いや信じているのは、それらがすでに言葉(langage)によって、そのように分節されているからである。つまり、『マトリックス』の中の胎児のように、だ。彼らが現実と信じて見ている夢は、ほんとうの現実(真実)ではない。
 ほんとうは、われわれには、この世界(物質界)の真実を見ることはできない。五感という器官によってある見え方(認識の仕方)しかしていない。
 そのようにしか見えて(認識して)いないのである。
 しかし、モノが名状しがたく不気味に突出することがある。これが、先述のとおり、ロカンタンが見た公園での経験である。
 註、二日酔いのために、世界が象の皮膚のように感じられた経験はないだろうか。つまり、われわれが正常と信じて疑わない世界は、あくまでも世界の一つの貌にすぎない。
 筆者自身も、目に見えている外界が唯一の現実であるとは信じていない。学生時代に被験者としてLSD服用という強烈な経験をしたからである。このアルカロイドは神経伝達の生理的連鎖を断ち切るらしく、世界はまるで芝居の書き割り(舞台背景)のように薄っぺらくなり、しかも皮膚が剥けるように景色が次々を剥けていくように感じられた。つまり、実体感が消えるのである。(むろん、正当な手続きを踏まない非合法な服用が、極めて危険であるのは言うまでもない)

[まとめ]
 ●ラカンを理解するにはフロイトを熟知する訓練が必要だが、とりあえずのお薦めは、『ラカン―象徴的なものと想像的なもの』(ジャン・ミシェル・パルミエ著/岸田秀訳/青土社)である。その帯にある紹介文がまとめの代わりになる。
「無意識と言語の関係を構造的に把握し、鏡像段階、象徴界/想像界/現実界、欲望、他者、などの概念を駆使して、精神分析をはじめひろく人文科学に新しい視界をひらいた、ラカンの思想への平明なアプローチ。」
 ●一方、SFとは何か――を、今後も考えるとき、SF小説のほうがリアリズム(写実主義)小説よりも、〈脳生育史〉的にも、〈脳本来の機能〉に対してより忠実だ――と筆者は考えるし、またSF文学をラカンのたすけをかりて精神分析することも可能だと思う。なぜなら「〝宇宙飛行士は現代の天使である〟と述べたラカンのSF観……」という気になる言葉が、『ラカンもしくは小説の視線』(赤間啓之著/弘文堂)の〝訳者あとがき〟にあるから……。
 [その他、参考にした著作]
『精神分析の知』(福島章編/新書館)「ラカン」の項
『現代思想 フォーカス88』(木田元偏/新書館)「鏡像段階」「象徴界/想像界/現実界」の項 
『精神分析用語辞典』(ラプランシュ+ポンタリス著/村上仁監訳/みすず書房)「想像的なもの」「象徴的なもの」の項
『フランス哲学・思想事典』(編集委員/小林道夫+小林康夫+坂部恵+松永澄夫/弘文堂)「ラカン」の項
『ポストモダン事典』(スチュアート・シム編/杉野健太郎+下楠昌哉監訳/松柏社)「ラカン」の項
『ラカンの仕事』(ビチェ・ベンヴェヌート+ロジャー・ケネディ著/小出浩之+若園明彦訳/青土社)
『家族複合』(J・ラカン著/宮本忠雄+関忠盛訳/哲学書房)
『パラノイア性精神病』(ジャック・ラカン著/宮本忠雄+関忠盛訳/朝日出版)
 なお、『エクリ』は目下、わが書架より失踪中。
                                         (荒巻義雄)
                            (2007/7/14)

2008/7/7 月曜日

【訃報】トマス・M・ディッシュ逝去

Filed under: 最新情報 — admin @ 15:18:45

ローカスオンラインで、ニューウェーヴ・スペキュレィティヴフィクションの旗手にして、すばらしい小説家、評論家であったトマス・M・ディッシュの訃報が掲載されています。享年68歳。残念ながら自殺だそうです。詳しくはローカスオンラインをご覧ください。

http://www.locusmag.com/

2008/7/6 日曜日

SF批評/SF評論の基礎(その7)―ロラン・バルト/神話とSFの諸問題

Filed under: 評論 — The Aramaki @ 21:31:10

〈評論〉
 SF批評/SF評論の基礎(その7)―ロラン・バルト/神話とSFの諸問題

 (1)バルトと神話
 ①バルトの『神話作用』(篠沢秀夫訳/現代思潮社)に「火星人」(三八ページ)というエッセイが載っているが、(旧)ソ連邦は地球と火星との中間的世界だ――という前提があるからこそ、空飛ぶ円盤はソ連の秘密兵器や火星人の兵器になる……。
(言われて見ればそうかもしれない。長い間、ソ連は秘密のベールに包まれた未知の国だったから)
 と、筆者もうなずくわけだが、そう言えば、要塞シリーズを書くとき一番気を使ったのが国名であった。一九八〇年代までのソ連は、いったい何を考えているかわからなかったから恐ろしかった。当時は北海道侵攻がまことしやかに囁かれていた時期っただから、実名ではまずい。それでウォトカの名からとって〈スミノフ〉とした。アメリカも〈IBM〉でイビムと読ませる工夫をした。それでフアンからは、ウォトカとコンピュータの戦争だなとからかわれた。
 現実の構造を残しながら、現実でない世界に仕立て上げる書きかたは、SFだからこそできるテクニックである。ほんとうは書きたい現実界を、あえて神話化する方法で、予想される批難攻撃を避ける方法こそがSFの真骨頂だ。たとえば、ジョージ・オーウェルが一九四九年に発表した『一九八四年』。この世界はオセニア・ユーラシア・イースタシアのグレート・スーパー・ステーツ(三超大国家)で成り立つ世界である。
 艦隊シリーズの場合は、あらかじめ批難が予想できたので、現実を非現実化するために神話の匂いをしのびこませた。たとえば、〈超戦艦日本武尊〉とか〈超潜須佐之男号〉とか。砕氷戦艦〈須佐之男号〉とか。SFだからできる迷彩である。
 ②バルトに言わせれば、アインシュタインの頭脳さえも神話的物体である。
〝未來小説では超人たちはいつも何か神々しい所にあるものだ〟
 とすら前掲書でバルトは書く。
 いったいなにを言おうとしているのか。アインシュタインは宇宙の神秘を開く暗号数学を探し当てた。つまり宇宙は多くの秘密を閉じこめた金庫なのだ。こうなると、映画『魔宮の伝説』とか『最後の聖戦』などの冒険活劇映画と、相対性理論方程式は、同じレベルになる。
 筆者は川又千秋氏が特別な方法で競馬予想をしていると聞き、秘数法への関心を感じた。映画『π』などもそうだ。主人公はコンピュータを使って必死に予言数を探す。
 山野浩一氏は馬の血統表から隠された秘密を探す手法だが、筆者の処女長編『白き日旅立てば不死』は確率論だ。ルーレットで稼ぎながらヨーロッパを旅する青年の話だが、あれを書く前に、毎夜、玩具のルーレットを回し続けて統計をとったものだ。ルーレットには必勝法があるのではないか――と、考えたからだ。むろん、理論上はないのだが……。
 テレビにもよく出るある有名な経済アナリストの親族から聞いた話だが、太陽黒点と相場の相関関係を研究しているのだそうだ。実際、この手の株価予想法はずいぶんあるが、確実なものなど存在しない。
 実は証明などできないのだ。前回、意識は密室に閉じこめられており、外界とは、唯一五感だけでつながっているというフッサール〈現象学〉の話をしたが、われわれ人間と世界の関係もそうなのだ。だから賭博の世界は〈現象学〉に似ている……。
 人は心の奥で世界の秘密を探しているのだ。謎のダイヤル数字でもいいし、羊皮紙の地図、秘密の数字や記号、方程式でもいい。世界は真相を隠しており、人間はその扉を開けようとする。実はこれが〈神話〉なのである。
 たとえば、健康ブームだ。民放テレビの広告はさながら〈秦始皇帝の不老不死探し〉と同じだ。東海に蓬莱国があり神仙がすむ。始皇帝は徐福という方士に巨額の出資をして霊薬を探させる。
 一方、月光仮面のふりをしているキャスターは当世の流行。けっこう観ている朝の番組、みのもんたという人だけでなく、数々の時事番組司会者たち、最近の司会者は物言う司会者だが、他にも魔女狩り審問官を思わせるような民主党代議士などなど……。バルトが存命していたらどんなエッセイを書いただろうか。
 ③バルトを学べば、これらもまた、神話化であることがわかる。われわれは〈シニフィアンとシニフィエ〉の関係からさらに発展し、神話では〈超言語〉となることをバルトから学ぶ。
 たとえば、神武東征はだれしもが認める神話だが、九州勢力による軍事的東方植民計画の巧妙な合理化であったとも読める。ならばナチス・ドイツのポーランドおよびソ連への侵略戦争と同じである。つまり大東亜戦争開戦直前に急な流行をみせた神武神話は、表向きは日本民族に誇りを持たせる正義の神話だが、同時に日本のアジア侵略や、ナチス政策の支持という隠された意味も含まれているのだ。
 前掲書一五〇ページにあるが、バルトは写真入り週刊誌を例に引く。表紙にフランス軍の軍服を着た黒人に青年がまなじりをあげて三色旗に敬礼している。つまり、明らかなメッセージが、この映像には隠されているのだ。「偉大なフランスは、肌色の区別はしない」「みなフランスに忠誠を誓っているぞ」「だからフランスの植民地政策に反対する民族主義者よ、お前たちはまちがっているのだ」
 このケースでは、
 第一段階……黒人兵の写真〈意味するもの/シニフィアン〉
       眼を上げて敬礼する黒人兵〈意味されるもの/シニフィエ〉
 国際情勢について何の知識も興味もない者にはただの写真であり、彼は単に写真の芸術的価値にのみ興味を持つかもしれない。
 しかし、国際情勢を知っている者には、この第一段階の〈意味されるもの/シニフィエ〉が〈新しいシニフィアン/意味するもの〉を形成し、隠された政治的メッセージ〈第二段階のシニフィエ〉となるのだ。
 こうした〈記号表徴〉の操作こそが〈神話/文彩〉だ――と、バルトはいうのである。まさに嘘術だ。情報操作のテクニックである。最近のニュースがまさにそれだ。
 小出しにでてくる社保庁の年金問題。これでもか、これでもかと小出しにされるうちに国民の怒りも麻痺する。これが〈ワクチン法〉である。
 イデオロギーの嘘もある。文科省の教科書問題は歴史の書き換えである。広告や犯罪の隠蔽、弁護士の戦術である本質のすりかえ。ますまます巧妙化する各種の詐欺事件など、われわれがなぜ簡単に欺されるかというと、上記のような〈記号操作〉が見抜けないからである。記号で作動してる人間の脳は、もともと記号で欺されやすい器械なのである。
 註、『現代詩手帳/ロラン・バルト』(一九八五年一二月臨増刊)も参考になる。

 (2)消費社会の神話/フェティシズム(物神性)
 ①SFが経済を扱う例はよくある。映画『ブレードランナー』はレプリカントと呼ばれる合成人間が、今日なら産業ロボットのように利用されている未來の話だし、ジェイムズ・ブリッシュの宇宙都市シリーズ第三話の『地球人よ、故郷に還れ』(早川書房)は宇宙時代の通貨を扱っている。わが国では眉村卓の〈イミジェックス〉に支配される未来社会『幻影の構成』(早川書房)が思い浮かぶ。
 こうした〈未來&宇宙経済SF〉を評論する有効な手はあるだろうか。
 以下は筆者の考えだが、ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(今村仁司+塚原史訳/紀伊国屋書店)が、いいヒントになるかもしれない。
 せっかく書かれたのに、多くのSF作品は、正統な評価を得られずに放置されているのだ。批評側が旧態依然とした文学論に従うかぎり、わがSFに再評価のチャンスはない。しかし批評更新の手段はある。一例が構造主義やそれ以降のポスト・モダニズムの理論である。
 ②精神医学の分野に〈フェティシズム(fetishism)〉があるが、毛皮や髪など性愛の対象の部分への偏愛である。(その4)で扱ったとおり、明らかに〈換喩的〉であり、また〈提喩的〉であるが、われわれは、ここに、意識活動における言語の謎めいた働きにも気付くべきであろう。
 狭義ではないフェティシズムは、諸民族の文化全体も深くかかわる。たとえば護符、水晶などのお守り、数えあげればきりがないほど日常生活に現れてくる。原始宗教における物神崇拝・偶像崇拝は全世界的にある。日本人の習俗にも様々なものがあり、たとえば、形代(かたしろ)は人型に切り抜いた紙に自分の汚れを移して除去する。有名なアーサー王物語と結びついた〈聖杯伝説〉も同じだ。神聖なキリストの血を受けたために不死性を与えられた聖杯は明らかに〈換喩〉である。
 経済学にもあり、マルクスは『資本論』の中で指摘している。彼が取り上げたのは商品であった。もともとはわれわれ人間の労働の産物である生産物が、資本主義市場の流通に乗せられると、生産者の顔が消え、商品自身が独立して内在価値を有するように消費者には思われるし、生産者はいったん売り渡したあと、商品は市場で自己運動する。
 なにも難しい話ではない、家族のように大切に育てた豚が仲買人に売られ、豚肉として売られる段階では、もはや、わたしの豚ではない。美味いかまずいか、安いか高いかの内在価値をもつ元の買い主とは無縁の商品なのである。(註、日本語とはちがい、欧米では元の名と商品はちがう。ピッグがポークになり、カウやオックスがビーフになる)
 食肉やうなぎの偽装事件もマルクスの〈商品世界の物神崇拝〉からも見直すとおもしろいだろう。
 こうした奇妙な現象は、貨幣という何とでも交換できる仲介物が登場したからである。本来、千円札は紙代と印刷費プラス経費の価値しかないにもかかわらず、原価以上の商品と交換できるのは、貨幣に信用という付加価値がついているからである。
 むろん、旧ルーブルのように、突然、紙くずになることもあるが、多くは信用している。となると通貨信仰は偶像崇拝と同じだ。(註、ソ連崩壊の混乱時、アメリカのタバコが通貨の代わりになったことがあったらしい。通貨の本質がなにかとを気付かせる話ではないか)
  ③ボードリヤールに言わせれば、自動車その他の道具も本来の目的(使用価値)以外の機能が重視される。社会が豊になればなるほど、それを持つことによって得られる満足感(ステータスの向上など)が重要になる。現代社会では物(商品)が本来の有用性ではなく、ナニナニの記号として存在する。コマーシャル、映像、教養、ファッション、健康指向すべてに当てはまる。戦後の物資窮乏の時代を経験した筆者には実感としてわかる。当時は実用一点張りだったから、デザインの良さが豊かさの象徴でもあるとわかる。
 なお、日本では一九六〇年代にSF流行が始まったが、同じ頃、デザイン学校が盛んになり、筆者もデザイン心理学を教えた経験がある。SFとデザイン・ブーム、この両者は関連づけられるかもしれない。
 文革が終わったすぐあと、筆者は中国へ行ったが、そのころは国中が人民服一色であった。それが今日ではファッションショーまで行われる。考えてみると、社会主義体制が資本主義と市場経済に破れたのは、生産力が増した豊かな社会では、機能性ではなくデザイン性や洗練度が価値となる――という事実に、気付かなかったからではないだろうか。
 マルクスがすでに気付いていたにもかかわらず、物神性がこれほど強い力だとは、社会主義国の指導者らは考えなかったのであろう。
 最近、本が売れなくなったのも、本の物神性(教養)が、その後、発達してきた他のメディアにとって替わられたからではないか。つまり、本の読み手の資質が変わったからではなく、本という物体がこれまで内包していた〈聖なる記号〉が剥げおちたからではないか。最近はそんな気がしている。
                                  (2008/7/5)

次のページ »

HTML convert time: 1.821 sec. Powered by WordPress ME