2009/6/30 火曜日

SFセミナーレポート&SF乱学講座のお知らせ

Filed under: イベント, 報告 — Akira OKAWADA @ 0:23:48

 告知が続いてしまいまして、申し訳ありません、岡和田です。
 そろそろ小論の方も上梓できるものと思っておりますのでどうぞ、ご寛恕を下されば幸いです。

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 まず、現在発売中の「S-Fマガジン」09年08月号に、「SFセミナー2009」のレポート記事が掲載されております。「SFセミナー2009」に参加された方も残念ながら行くことができなかった方も、どうぞ、ご覧頂けましたら幸いです。
 ちなみに、「Speculative Japan」のメンバーが数多く参加した「若手SF評論家パネル」のレポートは、「Speculative Japan」メンバーの海老原豊さんが担当されております。

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 同じく「S-Fマガジン」09年08号に掲載されていますが、ありがたくもお声をかけていただきまして、7月5日(日)に開催される「SF乱学講座」で簡単な講座をさせていただくことになりました。

・SF乱学講座
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/index.html

 SF乱学講座は、参加者の年齢層に幅のある間口が広い講座だと思うので、うるさいかなと思いつつも、講師紹介はやや詳しめに掲載いただきました。たぶんその方が、話が通じやすくなるのではないかと思いまして。
 SF大会と日付がかぶっていますが、参加しない方は、ぜひお越し下さい。打ち上げで暴れましょう。参加費も場所代程度です。ぜひ、真面目にSFしましょう!

 なお課題の中心に拙著を使うのは、営業のつもりはぜんぜんありませんで(笑)、話を通じやすくするためです。RPGについて語るうえで、やはり自分の作品がいちばん自信をもって語ることができるので。
 ちなみに、自作の裏話やぶっちゃけトークでお茶を濁すつもりもぜんぜんなくて、真面目にナラトロジー(批評理論としての物語論)とルドロジー(批評理論としてのゲーム論)について考えていこうと思います。要項はいかめしいですが、明快さ、わかりやすさを第一に話す予定ですので、ご興味のある方は、どうぞいらっしゃって下さい。

 以下、SF乱学講座のサイトからの引用になります。

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SF乱学講座2009年7月の予定
タイトル:「「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える」

講師  : 岡和田 晃(おかわだ・あきら) 氏

開催日時:2009年7月5日 日曜日 午後6時15分~8時15分

参加費:千円

会場:高井戸地域区民センター3F 第4集会

講師紹介:
 1981年北海道生まれ。トマス・ディッシュ論で第51回群像新人文学賞評論部門最終候補、大江健三郎論で第52回群像新人文学賞評論部門最終候補。ジーン・ウルフ論で第4回日本SF評論賞最終候補。
 SF集団「Speculative Japan」のメンバーとして、SFと純文学の境界線上にある作品を多数論じている。評論に「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」(『社会は存在しない』所収、南雲堂近刊)がある。
 「SFセミナー2009」では、本会企画「若手SF評論家パネル」に出演。夜間企画「『Speculative Japan』J・G・バラード追悼と読書会」、「仁木稔と『HISTORIA』シリーズを語る」の司会も務める。
 また、専門誌を中心に、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』、『ウォーハンマーRPG』など主として西洋社会史に関係したロールプレイングゲーム作品についての記事執筆・翻訳多数。
 著書に『ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド』、翻訳書にグレアム・デイヴィス『ミドンヘイムの灰燼』、デイヴィッド・チャート他『救済の書:トゥーム・オヴ・サルヴェイション』(共訳)などがある。

内容紹介:
 SFがテクノロジーと人間との関わり合いに焦点を当てた文学形式であることは論を待ちません。しかし、「情報」として作品内にテクノロジーを組み込むだけではなく――J・G・バラードや筒井康隆らが示してきたように――爛熟したテクノロジーが人間を、ひいては表現そのものをもダイレクトに変容させてしまうところにも、SFの面白さは宿るものと私は考えます。
 それゆえ、SFの在り方を考えるには、SF内で描かれる情報の種類だけではなく、SFを規定する表現そのものの在り方についても思考の幅を広げる必要があるのではないでしょうか。
 かような問題意識のもとに、参加者の方々と一緒に、SFという表現の可能性について考えてみるつもりです。
 具体的には、私が近々上梓する評論「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」(『社会は存在しない』所収、南雲堂近刊)と、ロールプレイングゲームについての単著『ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド』の両者がいかなる問題意識のもとに書かれているのかの解説を軸にして、「ナラトロジー」(批評理論としての物語論)と「ルドロジー」(批評理論としてのゲーム論)の両局面から、SFという表現の在り方が今後いかように深化しうるのかを考察しようと思っています。
 「いわゆるハードSF的なアプローチの他にも、アクチュアルな表現としてSFに接することは可能だ!」ということを知っていただけましたら幸いです。
 参加予定の方は、事前に以下の資料をお読みいただければ、話が進みやすくなるので助かります。

◆1、青木淳悟「TOKYO SMART DRIVER」(新潮社『このあいだ東京でね』所収)
   http://www.shinchosha.co.jp/book/474103/
 この短編のスペキュレーションと言いますか、ぶっちゃけて言えば「ものすっごく変な書き方」(笑)を、できれば講座の前に体感しておいて下さい。
 余裕がある人は、表題作「このあいだ東京でね」もどうぞ。

◆2、岡和田晃『ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド』(新紀元社)
   http://w3.shinkigensha.co.jp/books/978-4-7753-0714-4.html
 私の著書が売れてほしいから指定しているのではなく(笑)、ルドロジー的な問題意識が表現としてどう具体化するのかを知ってほしいと思い、指定いたしました。
 限られた時間でロールプレイングゲームという表現の独自性を説明するのはなかなか難しいので、できれば目を通しておいていただけましたら幸甚です。

2009/6/10 水曜日

『社会は存在しない』が刊行されます(その2)

Filed under: 報告 — Akira OKAWADA @ 12:08:13

 こんにちは、岡和田です。

 先に藤田さんからも告知がありましたけれども、紹介いただいた限界小説研究会編『社会は存在しない――セカイ系文化論』(南雲堂)という評論のアンソロジー本には私も評論を掲載いただいております。

 手前味噌で恐縮ですが、この場をお借りして紹介をさせていただきます。藤田さんの紹介文と合わせ、評論集の輻輳性を理解するためのよすがとしていただけましたならば幸甚です。

 (※なお、発売時期は7月に延期されたようです……申し訳ありません)

 

 私が書かせていただきました原稿の表題は、

「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」 となります。

 原稿用紙換算で65枚程度の、本格的な文芸評論になります。 

 トマス・ピンチョン、ジョルジュ・ペレックの再来と呼ばれる特異な現代作家・青木淳悟について、あたう限り執拗かつ詳細に考察をしています。

 現代においてスペキュレイティヴ・フィクションを語るにあたり、おそらく青木淳悟は外すことができない作家であると思いますが、青木淳悟が商業媒体においてこれだけの分量でまとまって論じられる機会は、私の知る限りなかったはずです。それと同時に、私が例えば日本SF評論賞の最終候補にいただいた評論で触れた主題を、別の角度から再検討した内容ともなっています。

 評論の中身をひとことで説明すれば「“失われた10年”に代表される時代の閉塞感=空気を討つためのスペキュレーションを有した抵抗文学として、青木淳悟の小説を読み解く」 ということになります。
 それは言い換えれば、「現代において、青木淳悟の小説のようなわけのわからないもの、ひいては文学、ひいてはスペキュレーションについて考えることについての価値」を改めて問い直したい、ということにも繋がります。
 イデオロギーだけを読み込んでつぎはぎをしたり、声高に人生論を叫ぶようなことは絶対にしたくなかったので、基本的な姿勢としてクローズリーディングを心がけました。密度と強度には自信があります。
 どうぞご高覧を賜れましたら幸いです。

 なお、本稿を収録いただいた論文集『社会は存在しない――セカイ系文化論』は、その名の通り「セカイ系」についての評論集となります。「セカイ系」とは、日本的なサブカルチャーに端を発した、フィクションにおける一種の思想的潮流についての呼称となります。

 ただ、「セカイ系」についての通念から意地の悪いことを言う向きのためにあらかじめ釘を刺しておきますが、私は本稿において、スペキュレイティヴ・フィクションについて語ったつもりではあっても、いわゆる「おたく論壇」という狭い世界を意識したつもりはまったくありません。あえて啖呵を切りますと、サブカルチャーの文脈で読んでほしくない、ということになります。
 むしろ「文学」、ひいてはスペキュレイティヴ・フィクションという言葉がかつて示していたような、長期的かつ広範囲に渡るパースペクティヴを有した、強度ある言説を志向しました。そのためには、もちろん私自身のフィールドであるところの、SFの思考法もふんだんに盛り込んであります。いや言ってしまえば、本稿で私がやりたかったことは、広い意味でのSF評論ではないかと自認しています。

 そもそも「セカイ系」なる言葉が体現している時代の病理、閉塞感のようなものに対し、私のような80年代前半生まれの人間はどうしようもなく敏感たらざるをえないところがあります。好悪の情で言えば、私は「セカイ系」が嫌いです。積極的に話題にしたいとも思わない。しかし、それだけでは片付けられないものがある。仮に同時代性から超俗的な立ち位置を確保したいと願っても、どこかに同時代性に規定されている部分が残るのは確かなのです。
 なので私は主体の在り方を考えるに、青木淳悟のような「セカイ系」から最もかけ離れた作家を通し、90年代以降の想像力と表現、それらを規定する空気そのものを思考し、可能ならば抵抗しようと足掻くことにしました。ポレミークな論文ではありますが、特定の個人や企業などを攻撃しようという思いはなく、むしろその背後に根付く時代精神について考えることを志向しました。
 そのため、論文集に収録された他の論文とは、出発点は似たものでありながらも、アプローチはかなり異なっているものと思います(現に、藤田さんの書かれた内容と私のそれとは、まったく色合いが違ったものになっています)。

 次第に単純かつ素朴になりまさる言説空間に対し、違和感を抱き、孤独を感じている方にこそ読んでいただきたい。現代の重力によってスペキュレーションが抹殺される状況に苛立ちを覚えている方にこそ読んでいただきたい。フリードリヒ・シラーの「素朴文学と情感文学について」のような澄明な言説に憧れながらも、圧倒的な断絶を感じている方にこそ読んでいただきたいと思って書きました(シラーの理想とする古代ギリシア的な素朴文学と、現代の素朴さとはまるで違う!)。

 むろん、他の論考も、優れた書き手が情熱をもって執筆に臨んでおり、実にバラエティ豊かな仕上がりとなっています。

 藤田さんはもとより、『機械じかけの夢』や『例外社会』で知られる笠井潔さんや、『SFマガジン』で連載を持っているライター、飯田一史さんなど、SF畑で活躍を見せている書き手も名を連ねています。

 よい意味で、派閥意識のようなものが出ていない論文集になっているのではないでしょうか。
 いや、そもそも編集元の限界小説研究会という名称は、鶴見俊輔の『限界芸術論』から来ており、何らかの党派性を示すものではなかったりします。

 ちなみにちょっとしたこぼれ話をしますと、今回お声をかけていただいた際、「僕は『セカイ系』について書くのであれば、批判的にしか立論できないのですが、それでもよいのでしょうか?」と馬鹿正直に問いました(笑)  

 普通ならば即座に却下されるところですが、なんとOKをもらったのです。研究会のイデオロギー的な偏向のなさに、私自身、驚きました。
 こうした場所で思考する契機と、書く機会を与えていただき本当に感謝しております。
 ぜひとも『社会は存在しない』をお読みになって下さい!

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『社会は存在しない――セカイ系文化論』

限界小説研究会編 四六判並製 460ページ 定価2650円(本体2500円) 発売・南雲堂

笠井潔/小森健太朗/飯田一史/岡和田晃/小林宏彰
佐藤心/蔓葉信博/長谷川壌/藤田直哉/渡邉大輔

●ゼロ年代批評の総決算! いま、新たな「セカイ系」の時代へ。
セカイ系をめぐる諸問題について、ゼロ年代が終わりをつげようとするいま、時代的な意義と批評的な射程を捉え返し、広範かつ多様に展望する。
また、セカイ系的な「リアル」を最も身近に体感してきた二〇代から三〇代の若手論者を中心とした初めての本格的なセカイ系評論集。

《目次》

序文
渡邉大輔 「セカイ状」化する世界に向けて

1、社会とメディア――ネオリベラリズム・サイバースペース
笠井潔 セカイ系と例外状態
飯田一史 セカイ系とシリコンバレー精神――ポスト・サイバーパンク・エイジの諸相

2、サブカルチャー――ライトノベル・アニメ・コミック
佐藤心 『イリヤの空』、崇高をめぐって
小森健太朗 〈セカイ系〉作品の進化と頽落――「最終兵器彼女」、「灼眼のシャナ」、「エルフェンリート」
長谷川壌 セカイ系ライトノベルにおける恋愛構造論

3、文学――ミステリ・純文学
小森健太朗 モナドロギーからみた舞城王太郎論
蔓葉信博 虚空海鎮――『虚無への供物』論
藤田直哉 セカイ系の終わりなき終わらなさ――佐藤友哉『世界の終わりの終わり』前後について
岡和田晃 青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)

4、表象と身体――映画・演劇
渡邉大輔 セカイへの信頼を取り戻すこと――ゼロ年代映画史試論
小林宏彰 「セカイ」の全体性のうちで踊る方法――快快(faifai)論

2009/5/29 金曜日

『社会は存在しない』が刊行されます

Filed under: 報告 — Naoya Fujita @ 19:45:13

   お久しぶりです。藤田直哉です。巽孝之先生のアメリカ講演旅行のレポートを読んで、聞きたかったなぁと涎を垂らしております。

   ところで、Mixiで日記を書いていると増田さんからお誘いがあり、半ば宣伝めいたエントリをこちらに書かせていただくことにしました。というのも、SF評論賞への応答の部分が大きいからでしょう。お目汚しになるかもしれませんが、書かせていただきます。
   予告していた佐藤友哉論文、「セカイ系の終わりなき終わらなさ――佐藤友哉『世界の終わりの終わり』前後について」、が、限界小説研究会編の『社会は存在しない』に掲載されて6月(予定)に出ます。この論文が書きたくて佐藤さんに会いたいという欲望から、ザクティ革命が始まったのです。本来『Xamoschi』に入れるべきであったでしょうか。佐藤友哉を通し、何故セカイ系は北海道を舞台にするものが多いのか、という問題に答えようとしています。過去の佐藤友哉論文と比べても、総合的な佐藤友哉論になっているのではないかと思います。

   個人的な思い入れを語れば、実はこれは商業媒体でまともな枚数で書く、デビュー論文以来の論文でした。(「ひぐらし」論とは書いた時期と掲載が前後しています)これがうまく書けないと、自分はもう終わりかもしれないと思いながら必死に書いたものです。だから割と実直な文学研究的なアプローチをしています。ゼロアカでの僕の「ネット的なパフォーマンス」しか知らない人には意外かもしれないですが、SFマガジン掲載論文なみのガチ度に達するためにかなり頑張りました。(あと、佐藤さんに怒られないようにと本気で今でも怖い)

   もう少し個人的なことを書きますと、これはデビュー論文でのSFマガジンの選評に応答している側面が大きいです。「アメリカである必要があるのか」という問いを僕は受けております。だから今回は、デビュー作で扱った塔とグリッドの問題を、日本を舞台にしてもう一回書きたかったのです。さらにラカン・ジジェクを使ったので「量産ができそうだ」とも言われており、では、それらを封印して書けるのか、という課題を個人的に課していました。それと、第二回の橋本勝也論文とそれに対する選評への応答の側面もかなり大きいです。「セカイ系」を否定するべきものではなく評価できないか。佐藤さんの『世界の終わりの終わり』は素晴らしい作品だと僕は思っており、この作品を検討することで色々な事が見えてきました。

   笠井潔さんらに誘っていただき、このような論文を発表する場を与えていただき、大変有益な勉強の場を与えていただいていることを、この場で感謝を示させていただきます。

   「いまどきセカイ系?」と仰られる気持ちは分かります。しかし、他の方々の論文も相当アツいです。6月初旬に出るはずなので、是非ともお手にとってください。

『社会は存在しない――セカイ系文化論』

限界小説研究会編 四六判並製 460ページ 定価2650円(本体2500円) 南雲堂

笠井潔/小森健太朗/飯田一史/岡和田晃/小林宏影
佐藤心/蔓葉信博/長谷川壌/藤田直哉/渡邉大輔

○ゼロ年代批評の総決算! いま、新たな「セカイ系」の時代へ。

セカイ系をめぐる諸問題について、ゼロ年代が終わりをつげようとするいま、時代的な意義と批評的な射程を捉え返し、広範かつ多様に展望する。

また、セカイ系的な「リアル」を最も身近に体感してきた二〇代から三〇代の若手論者を中心とした初めての本格的なセカイ系評論集。

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