意識が消滅した者との共生は可能か――八杉将司『光を忘れた星で』を読む
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意識が消滅した者との共生は可能か――八杉将司『光を忘れた星で』を読む
岡和田晃
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本稿では八杉将司の傑作スペキュレイティヴ・フィクション『光を忘れた星で』(二〇一一年)を論じる。
一九七二年生まれの八杉は、第五回日本SF新人賞の受賞作『夢見る猫は、宇宙に眠る』でデビューした。同作は、人格を模倣するAIトゥインと発達障害のヒロインであるユンの認知の問題を宇宙論的な規模に拡張させながら――量子論とナノテクノロジーを軸に――荒巻義雄「柔らかい時計」(一九六八年)や、川又千秋/トマス・ラマール『Death Sentences』(二〇一二年)のような、火星を舞台にしたスペキュレイティヴ・フィクションの伝統に連なるものとなっている。とりわけユンの存在論的位相は、近年では仁木稔「はじまりと終わりの世界樹」(二〇一二年)の「姉」と、まさしく表裏一体をなしている。
八杉は本質的にガジェットからストーリーを考える作家であり(*1)、荒巻義雄の艦隊シリーズなど、シミュレーション小説に強く影響を受けている。八杉は、何よりもガジェットを利用し作品を組み上げていく過程で、独自の問題意識を入れ込む「ブリコラージュ」の作家だと言えるかもしれない。その真骨頂は『Delivery』(二〇一二年)に現れているが、『光を忘れた星で』はブリコラージュ的な方法論で、現代文学の思想的なエッジを切り取った作品となっている。
「全人類盲目!」というキャッチコピーで登場した『光を忘れた星で』は、盲目の語り手による、視覚描写を徹底して排した世界が描かれる。H・G・ウェルズの『盲人の国』(一九〇四年)を意識したと言われる本作は、伊藤計劃『ハーモニー』(二〇〇八年)への応答を含んでいる(*2)。
その『光を忘れた星で』を何よりも特徴づけるのは、『ハーモニー』で問われたような自意識の消滅を「視覚」と密接に関わるものとして描いていることだ。
「動くものが見えない」世界を描いた短篇「ハルシネーション」(二〇〇六年)の延長で考えられた『光を忘れた星で』では、徹底して視覚描写を排した世界を描くことで、読者に視覚情報に頼らない認知のあり方を追体験させることが企図されている。SF評論家の横道仁志は、このような『光を忘れた星で』のスタイルを「減算法の発想」と呼んでいるが(*3)、それではなぜ、視覚が(自)意識と結びつくのか。それは、視覚があまりにも多くの情報を、脳のなかに送り込むことに由来するだろう。
『光を忘れた星で』の作中では「現在の我々が目を退化させたのは、それほど過剰な情報の奔流を脳の中で塞き止めるか追いやるかして自意識を救おうと適応した結果」だと語られるが、実際に、「無我の目」という、自意識(自我)を滅殺することで、余剰情報を脳からシャットアウトし、遺伝的に刻み込まれた視覚情報を再生させるという技術が伝播されている。
本作の語り手は「アピス」と「マユリ」、複数の名を持つが、この世界では自我のあり方すらが、一種のタグのように可変的なものとして取り扱われている。やがて、本作では「リジェネプロジェクト」という視覚を再生させる試みが登場するが、その被験体に選ばれ、施術に成功した語り手は、得られた情報を適切に選別できずに苦しむ。語り手と「リジェネプロジェクト」の仕掛け人、「カリン先生」との対話を見てみよう。
知識とは視覚で得られた情報の選別である。たとえば手元にあるゲロ桶。ゲロ桶は大きな円筒状の器で、触ればそれとわかるのだけど、視覚だけでは支離滅裂な感覚しか伝わってこないのでゲロ桶であると特定できなかった。ようするにゲロ桶の視覚の感覚記憶がないために情報の選別ができないのだ。
「でもね」と、カリン先生は言った。「視覚による形状の記憶があなたにないわけじゃないの。これまで無我の目で周囲を『見ていた』から、無意識には視覚感覚の記憶があるはずなのよ」
「無意識ですか」
では、意識したら掘り起こせるのかと思ったけど、何もそれらしきものは浮かんでこなかった。
「意識できないので無意識って言うの。実際、無我の目で指の数当てができてるでしょ。あれは手や指の視覚情報が脳にちゃんと刻み込まれているからよ」
「ああ、そうか。指の形がわからなかったら数も当てようがないですものね」
「そういうこと。あなたは視覚感覚で周囲のものを改めて感じ直して、それにこれまでの知識を当てはめて選別していかなければならない。そうすることでようやく意味のない無秩序な感覚でしかない今の視覚が、自分の意識の上で使えるようになるわ」
「……ものすごく面倒くさいですね」
「それでも無意識の視覚すらもなかった場合より選別はつけやすいと思うけどね。感じ直すことは無意識の記憶を引き出すことにもなるだろうから、うまく行けば芋づる式に記憶が表層意識に現れてくる。案外、早く視覚を使いこなせるようになるかもよ。がんばりなさい」(『光を忘れた星で』)
この対話から見えてくるのは、視覚体験が意識的なものとして扱われていることだ。『光を忘れた星で』が参考文献に挙げている『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』 (二〇〇四年)(*4)においては、視覚は二つの異なる働きをすると説明されている。つまり視覚は「行為」を制御し、かつ、表象を作り上げる「知覚」の機能をも有するのだ。そして脳は、まったく異なる二つの独立したシステムによって、「行為」と「知覚」を、それぞれ処理しているというのである。この際に生じるずれが、私たちの自意識に負担をかけることになる。「行為」と「知覚」は扱う時間軸も異なれば、機能にあたってのプロセスも異なる。それゆえ、視覚的な現象の多くは、体験の外部にあるものとみなされてしまうという次第だ。
『光を忘れた星で』の舞台である植民星では、視覚のもたらす情報の洪水によって人々が無軌道な暴走を続けたがゆえに、人類はかつて保持していた高度なテクノロジーを失ってしまったと語られるが、体験の外部から視覚の機能を取り戻すために編み出された「無我の目」によって、かえって「視覚」の記憶に淫してしまい、「行為」を独り歩きさせた「トロル」あるいは「バルバロイ」とタグ付けされた主体が登場する。『光を忘れた星で』の後半では、「バルバロイ」との戦争がクローズアップされるが、「バルバロイ」が今後どのように進化するのか、それが明らかにされる箇所を見てみよう。
人間の肉体は、意識という機能を嫌でも持ってしまう構造をしている。二本足で立ち、自由に両手を扱え、言語を駆使できる喉と口を持ち、ほかの動物に比べれば無駄と思えるほど神経にゆとりがある脳を抱えているのだ。
バルバロイもいずれ意識を取り戻すであろう。しかし、それはおそらく視覚中心の自我のない意識になる。そんな意識がどのような思考をしているかは想像もできんがね。
どんな意識であれ、意識は意識だ。意識は進化に有利な武器になる。意識によって思考を操作し、複雑で精緻な行動を起こさせる。他人を認識して会話ができ、関係を持つことで社会を作れる。そんな意識を持った動物は、どれほど厳しい自然淘汰にさらされても生き残れてしまうだろう。それが幸か不幸かは別としての。
バルバロイはすでに社会を作り、強い仲間意識を持っている。その新しい意識を芽生えさせていると考えてよかろう。
そして、その意識とわしたちが持つ自我意識とは決して交わることはない。意識が違えば共感もできぬ。当然だ。「私」がない相手を信用できるかね。
バルバロイは視覚が持つ強みを存分に発揮して、わしたちを滅ぼしていくだろう。(『光を忘れた星で』)
『光を忘れた星で』のラストでは、「互いが異なった世界に生き、思考も感情も自我の有無すら違う存在であっても、共有できる感覚が一つでもあれば友達でいられる」と、「バルバロイ」と化したかつての友人「ルーダ」(または「レイ」とタグ付けされた者)と、語り手が共存する道が模索される。アシモフの「夜来る」(一九四一年)では、日蝕によって、二〇〇〇年ぶりに「夜」が訪れた者たちが狂気に陥る様子を描いたが、『光を忘れた星で』においては、「夜来たる」の狂気を越え、意識が消滅した「バルバロイ」の《生》も表象可能で、共生することは可能であると、静かな確信をもって示唆されている。
人間の脳は「行為」を自動的なシステムで制御し、表層意識にのぼらせることなく「知覚」に基づいて表象機能を働かせ、各種計算を行なわせることができるのだから、ミラー・ニューロンを活用し、「バルバロイ」とも共生することが可能だろう。こうした《生》の提示は、『ハーモニー』以後のコミュニティのあり方を、誠実に模索しているものと言えるだろう。
『ハーモニー』でチェチェン紛争が示唆されるように、伊藤計劃が切り拓いた現代SFの新たな地平においては、現代の紛争状況が大きな枠組として影響を与えている。『光を忘れた星で』は、知覚の問題に特化した思考実験を行なうことで、『ハーモニー』が提示した問題が、より明確なものとして整理されている。『ハーモニー』と『光を忘れた星で』は、対にして読まれる必要があるだろう。
【脚注】
(*1)八杉将司×岡和田晃「八杉将司インタビュウ」「SFマガジン」二〇一二年七月号、早川書房。
(*2)八杉将司×高槻真樹「八杉将司『光を忘れた星で』インタビュー」「SF Prologue Wave」(http://prologuewave.com/archives/1209)、二〇一一年。
(*3)横道仁志「2013年版 日本SF最新ブックガイド150 八杉将司」『SFが読みたい! 2013年版』、早川書房、二〇一三年。
(*4)メルヴィン・グッディル、デイヴィッド・ミルナー『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』鈴木光太郎、工藤信雄訳、新曜社、二〇〇八年。